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SANJO-SYOUTETSU ASSOCIATION

三条金属産業史 〜付論 21世紀、三条地場産業論の要諦

前三条信用金庫
さんしん地域経済研究所所長
文、画:高井 茂

三条の遺跡発掘の記録によれば、私たちの先人は縄文時代、今から1万2000年程前に生存していたらしい。上野原遺跡から縄文土器が発見されていて、大自然の豊かな中で、生き生きとした精霊崇拝が行われ、アニミズムの世界があった。既に五十嵐川がひたひたと流れていて、狩猟や採集の他に漁労も行われていたことを、その遺跡発掘が訓えている。(縄文時代の上野原遺跡から石錘(せきすい/魚をとる網につける石のおもり)が発掘されている。)
弥生時代に入ると、大和朝廷が国づくりをはじめて、垂仁天皇の第8皇子五十日足彦命(いがたらしひこのみこと)が西暦前29年に朝廷から派遣され、南魚沼郡上田郷に治水農耕技術を指導、次いで南蒲原郡下田郷に来住されて同じように生活指導されたという(渡辺行一著「三条の歴史」より)。五十嵐川の名称は命(みこと)の名にちなみ、そして、下田村飯田の五十嵐神社にはこの命が祀られている。三条にも土偶が発見されていて、穴のあいた目の土偶が、三条市歴史民俗産業資料館に展示されているが、哲学者の和辻哲郎(1889−1960)によれば、この穴の空いた目の土偶は日本だけのもので、その表情は類のないやさしさを表現し、農耕民族の持つ美意識なり、と絶賛している。そのやさしさは、日本の土偶と外国の土偶を並べて、遠くから離れて見ると、一目瞭然わかるという。
西暦285年には百済より論語がもたらされ、私たちの国に初めて国語の基い(もとい)が登場する。「その国の文化は、言語環境によって築かれてきた」と東京医科歯科大学の角田忠信名誉教授(大脳生理学)はいわれる。国語が成長する幼児期に、論語がしっかり基盤になったことは、日本民族にとって何はともあれ幸いであった。聖徳太子の17条憲法に「礼の用は、和を貴しと為す」の論語の一文が、すでに使用されている。

さらに552年、仏教が日本に伝来するや、弥生時代の土偶文化から、百年も経ずして飛鳥美術が声をあげて誕生した。世界の四大文明の高みに、この日本の仏教美術が一挙にランクインしたのである。日本人の素晴らしい美意識に世界は驚嘆したと、和辻哲郎は「新稿日本古代文化」に書いている。そして、当時の私たちの下田郷もまた、そのような日本文化の波動の中にあった筈である。
そして、平成6年(1994)3月の調査(三条市教育委員会遺跡調査事務所 田村浩司氏)によると、平安時代(9世紀前半〜10世紀前半)の遺跡で、鞴(ふいご)の羽口の破片、鉄滓(てっさい)、砥石などの鍛冶に関係する遺物や鉄製品などが出土した、とある。

下田 五十嵐神社 三条市歴史民俗産業資料館
下田村 五十嵐神社 三条市歴史民俗産業資料館

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やがて、暴れ川五十嵐川の流砂塵埃が、大崎・月岡を耕作可変地とし、先人のたゆまぬ開拓によって、大槻田に部落が誕生した。それが後に現在の三条となる。部落ができれば守護神が必要とされる。885年、槻田神社が京都清水八幡宮を勧請して創建された。後年の三条八幡宮である。
12世紀に城資国(じょうすけくに)が五十嵐川沿いに城を築いて以来、池氏、山吉氏、上杉氏、堀氏等それぞれの一族が三条城城主として数百年にわたって八幡宮を守護しつつ、城下町を発展させてきた。

13世紀の鎌倉時代に入ると、禅宗が確立される。禅院が出来て、学問芸術の貯蔵所となった。禅僧が終始、外国文化と接触し、禅僧自身が芸術家であり、学者であり、神秘思想家であった、と思想家・禅学者の鈴木大拙(1870−1966)はいわれる。そして貴族階級と政治的支配階級が禅門の後援者であり、その修行にも服したのであった。美術、文芸、茶などの禅文化が生まれ芸術が根付き、剛毅木訥の武士道が誕生した。禅院が山林にあることから自然との強烈な接触が求められ、「無より出て無に這入る」ことを自覚する民族性が培われるようになる。

三条八幡宮
三条八幡宮
三条まつり
三条まつり1 三条まつり2 三条まつり3 三条まつり4

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1299年に本成寺が開基し、その後東別院、西別院を中心に63の寺院が城下町に並び建ち、寺町(てらまち)区轄を形成した。14世紀の南北朝時代になると、河内国より鋳物師が来住して鋳物技術を教えて、三条に鋳物産地が誕生し、また1382年に七日市が開かれていた事が記録にある。その市場(いちば)には能登半島の壺や中国製の銭も売られていたというから、城下町の賑わいの様子をうかがうことが出来る。1530年、三条島の城に生まれたともされる上杉謙信は、この七日市を六斎市とし、城下町全域を働かない日と定めて市(いち)の日を大いに繁盛させ、ついに越後を支配する主要城下町のひとつに発展させた(渡辺行一著「三条の歴史」)。その謙信はライバル武田信玄とともに、すぐれた禅匠であったことに配意したい。

本成寺 東別院
本成寺 東別院

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その後幕府は三条を直轄領とし、代官を派遣した。2代目代官大谷清兵衛定利が、1625年に来城したが、暴れ川五十嵐川、信濃川による洪水災害で農民の貧困甚だしく、その救済策に副業として和釘製造を指導、江戸より和釘職人が伴われた。火事と喧嘩が江戸の華といわれ、生産された和釘は関東に向けて盛んに出荷され、それは農民に大いに喜ばれたのであった。
しかし、直轄領となって喜んだのも僅か10年。寛永8年(1631)、「三条城廃止」の悲報が届き、独立藩三条は露と消えた。町民の誇りであった城の寄りどころが失われ、城下町は忽ち単なる部落に変貌したという。

幾たびも戦火に焼かれ、洪水に流されながらも、そのたびごとに不屈の精神で立ち上がってきた三条人は、五十嵐川・信濃川を日本海につなぐ大水路として生き抜いたのである。つまり、五十嵐川が信濃川に注ぐ三角州を河港としての、それは「往来人馬継立場」という純粋の町場創成であった。このとき、三条誕生という大変革がなされた。三条の中心は裏館方面の旧町場から、河港沿いの地へ移動し、商業による渡世へと大きく変化した。つまり、三条から分かれ出た新田という意味の「新田三条」が生まれたのであった。出新田「三条」は独立町であり、検地帳も別に下附され、現在の大字三条の地域がこの時確定された。時に万治元年(1658)8月であった。上町裏に13軒、西の鍛冶町に20余人の鍛冶屋があり、それぞれ鍛冶町を成し、周辺の農村開墾が進むにつれ、鍬・鎌などの農機具が製造され、寛文元年(1661)の初めに会津から鋸の新製造が八十里越えをして伝わり、ノミやナタなどの製法が同じ会津から小須戸経由で三条に伝わってきた。さらに一ノ木戸方面もまた、本格的な鍛冶業が行われ、一鍛冶町をつくる。一ノ木戸村領主の村上藩も又、越後鉄物の産地をもって知られていたので、それは又当然の動きであった。
廃城により20余年経て、三条の住民のたゆまぬ努力が効を奏し、現在の下田村、栄町、加茂市、燕市、吉田町、弥彦村及び分水町に至る(以上は三条城所在の当時の領地。現在の県央地域に重なる)附近村落の物資の集散地として商工業を発展させ、ここに完全な町場を作り上げた。時に1660年頃と思われる。寛文12年(1672)、「西廻り航路」と呼ばれる出羽(現秋田・岩手)から日本海沿岸に沿って下ノ関に至り、そこから瀬戸内海を経て、大阪・堺に至る航路を開発して後、新潟湊はその寄港地として有名になった。出雲から鉄材が、越前三国から石材が下積みにされ、京都・大阪から絹織物・小間物等が上積みとして運ばれてきた。したがって、鉄材は新潟湊より信濃川を使って三条に運ばれてきた。そのため、享保末年から元文年間にかけて(1735〜1741)鎌・包丁・小刀・鋏、そして天明年間(1781〜1789)に曲尺の生産が始まっている。燕、与板、月潟、白根など三条周辺から産出されるものは、その販売出荷が挙げて町場三条の商人の手になり、「三条金物」として、五十嵐川、信濃川、日本海の水路を利用して京都大阪へ、そして下ノ関より瀬戸内海へ入る。関東へは信濃川を遡行(そこう)し、魚野川の六日町に上り、三国峠を越えて上州の倉賀野に出る。そこから利根川の枝流を使い、更に利根川を下って江戸及び関東方面に出る。信州、甲州へは、日本海を直江津へと向け、陸路を辿る。会津方面は新潟から阿賀野川を津川まで遡行し、その先は陸路を歩く。そして会津を経て奥州各地へ輸送した。金物の他に染物、足袋も又販売出荷されていく。文化文政時代(1804〜1830)の江戸の文化爛熟期には、そのまま地方の越後三条にもシフトアップし、町民の文化興隆時代を築いていった。橘崑崙が「北越奇談」6巻を著し、校閲を柳亭種彦、挿図を葛飾北斎が入れ、江戸の永寿堂書店より出版し、その水準の高さを示している。さらに画人、詩人・俳人、茶人が輩出、良寛が三条へよく来たのもこの時代であった。

五十嵐川 冬の五十嵐川
五十嵐川 冬の五十嵐川

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こうして三条が繁栄を謳歌していたとき、文政11年(1828)の三条地震が起きた。その被害は越後の11藩領地に及んだという。良寛が地震直後に三条に来ており、その惨状を歌に残した。

  三条の市に来て

  なからへむことや思ひしかくばかり変はりはてぬる世とは知ら

  ずて

 かにかくに止まらぬものは涙なり人の見る目も忍ぶばかりに

三条地震のあとにはさらに農産物不作、大雪、三条大火そして天保飢饉が3年続き、人心はまったく荒廃し、虚無と焦燥に陥り、町はまさに疲弊しているさなかにあった。地震7年後の1835年(それは私の生まれた1935年より丁度100年前)、三条八幡宮境内に良寛詩碑が建立された。それは良寛遷化4年後のことであった。 

  十字街頭食(じゅうじがいとうじき)を乞い了り(こいおわり)、

  八幡宮辺方(へんまさ)に徘徊(はいかい)す

  児童相見て共に相語る

  去年の癡僧(ちそう)今又来る(きたる)と

良寛敬慕の住民有志が、その惨状の三条から立ち上がるべく、声をかけあってこの詩碑を建てたのであった。有志のうちの成田伝吉、三浦屋元助は、私の生家の町内二ノ町の人たちであることをのちに知り、何かしら深い親しみを感ぜずにはおれない。この詩碑の前に立つと、良寛を路上に見つけた子供たちがわぁわぁと歓声をあげて寄って来るのが聞こえてくる。窮状さなかの住民にとって良寛は、生活の生命力のシンボルであったのであろう。
1838年、再び三条飢饉に見舞われ、その窮状を大阪で聞いた豪商渋谷善助は、大阪の巨豪鴻ノ池(こうのいけ)善右衛門から8万両を借り受けて米を買い付け、三条へ廻送して瀕死の住民の急場を救った、という偉業の記録がある。論語雍也(ようや)篇に、十分に衆を救済する人がおれば、その人は仁者どころか聖人であろう、とあり、さらに、為政篇に「義を見て為さざるは、勇なきなり」、憲門篇に「利を見ては義を思う」とある。その意味で善助はまさしく論語の人であった、と思われる。私たちの先人に論語の人がいたことは喜ばしい。

良寛 新小路
良寛 新小路

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明治7年頃の三条鍛冶屋の分布図 明治7年頃の三条金物屋、鋼材商分布図

明治10年(1877)代初頭の資料(岩本由輝著「近世後期東北地方における鉄取引についての一考察」)によると、新潟湊1万6,003束(1束=10貫=37.5kg)の鉄が移入されており、西廻りのルート(青森―七尾―福岡―長崎―広島―大阪)の中で、最大の移入量であった。やがて洋釘や洋鉄、洋角鉄が海外から輸入され、明治16年(1883)三条にも入荷された。そして、三条商鐵組合の前身、北越商鐵組合が発足したのは、明治24年(1891)であった。大正3年(1914)第1次世界大戦が勃発して鉄材の暴騰、南京錠・ナイフの輸出が好況となり、業界は大いに恩恵を受け、潤った。大正8年、大戦が終息して忽ち不況となり倒産が続出。さらに昭和2年、世界恐慌の影響で、銀行倒産が多発した。そんな折り、昭和9年(1934)に三条は全国で123番目に市制を施行、晴れて「三条市」となった。しかしその後も不況は続き、時代は戦局厳しく、太平洋戦争への道を急ぎ、昭和20年敗戦。
戦後の昭和24年(1949)1月に鉄鋼2次製品の自由販売がようやく認められた。昭和25年(1950)、朝鮮動乱が勃発して鉄材暴騰、朝鮮動乱ブームが続いた。昭和34年における主要金属製品を挙げてみると、包丁・鋏・ノミ・カンナなどの利器工匠具、プライヤー・ペンチなどの作業工具、園芸セット・洋裁セットなどの家庭金物、鍬・鎌などの農具、戸車・蝶番などの建築金物、スケート・スキー金具などの運動用具、直尺・度器などの計量器、スプリングハンマー・研磨機などの機械、さらにミシン部品・石油ストーブなどもあり、金属製品の範囲は大きく広がっていた(渡辺行一著「三条の歴史」より)。昭和38年(1963)北越商鐵組合を三条商鐵組合と改称した。
この間、昭和9年(1934)の市制施行当時3万2,897人であった人口は、67年を経過した現在8万4,446人(平成12年度国勢調査)に、また5,980戸であった世帯数は、2万5,418へと推移している。
なお、新潟県県央地域地場産業振興センター前に、チタン製モニュメント「迎杜(げいと/GATE)」がある。これは平成8年(1996)、三条燕地域のグループ企業によって建てられたもので、高さ6.5m、幅2.9m、長さ5.5mの大きさである。駆使された技術は、コンピューターグラフィックによる景観シミュレーション、ミニチュアモデル・光造形モデル活用による形状確認技術、三次元CAD/CAM利用によるレーザー切断加工技術、ステンレス・球面ミラーボール加工組立技術、アルミ鋳物成型加工技術・光コントロール技術、異種材の接合加工技術などである。現在はこれに加えて、マグネシウム合金の新分野も推進しつつある。
三条燕地域では、すでに日本的世界的中小企業が輩出し、大小の企業がグループ研究の成果を発表、種々のコンクールにおいて受賞している。その果敢な精神は、インターネットを介して海外取引を進展、さらに海外企業との共同研究も始まった企業が現れた。
世界的経済学者シュンペーター(1883〜1950)は、第5次長期活動は1990年代から2040年代であり、50年長期活動説を以って革新の時代である、と説く。この時代は少数者が進展できるという。その少数者には、私たち三条燕地域の中小企業者が含まれる、と考えたい。論語の「温故知新」の真の意味が分かる人なら、その少数者グループに仲間入りができるであろう。
「温故而知新」は、故き(ふるき)を温ねて(たずねて)新しきを知る、と読む。「温故」は「知新」の原因であり、「知新」は「温故」の結果である。温はアタタメルと読むから、故き(ふるき)物をヒーターにかけて加熱すると今の時代に合った物になる。考えてみれば、人間の思想も社会の事象もすべて、前のことと後のことは一連したものだ、ということに気付く。そう、諸橋轍次博士はその著書「論語の講義」に述べられている。そうであれば、三条の歴史・金属産業史を顧ることは21世紀以後の未来を推論出来ることに結びつくのである。

(付論)21世紀、三条地場産業論の要諦

以上私は、日本史の中の三条を覗き、金属産業史に関わりながら足早に目を通してきた。アニミズムの縄文時代、弥生時代の土偶文化、そこに突如渡来した論語、そして仏教伝来による飛鳥美術と13世紀の禅文化の登場。その歴史の中で私たち三条は、五十嵐川・信濃川という自然の恩恵・畏敬の下に、誇りある三条城を築き、地場産業としての金属産業を育成しつつ発展してきた。
このような三条の企業家達に21世紀求められる事は、各自が本気を出して天分を発揮し、己れの本業を遂行することである。脳の中核にある脳幹、知性の脳の左脳、感性の脳の右脳をそれぞれ刺激し、活性化させ、また、足を引っ張る環境ではなく、ほめる環境を私たちの周辺に築いていく。すると必然的に私の、あなたの「本気」が飛び出してくる。本気が出さえすれば、それぞれ己れの天分を掘り出すことが出来るのである。

論語陽貨篇に「天何をか言うや、四時行われ、百物生ず、天何をか言うや」とある。四時とは春夏秋冬、百物とは生きとし生けるもの、という意味である。四季が運行し、草木鳥獣等の百物がそれぞれ立派に生を遂げている。それは天の偉大なる働きによるものである。しかし天は何も言わない。「自然こそ完全な芸術の見本」(鈴木大拙著「禅と日本文化」)という言葉は、この論語の一説の「四時行われ、百物生ず」に重なる。私たち日本民族は自然から無尽蔵の見本を発見し、さらなる地場産業の展開に結び付けていただきたいと思うのである。
シュンペーターがいう如く、企業家こそ真の革新者であり、企業家が経済発展を推進してきた。そして、経済発展の最終目的は人間の価値を高めることであり、又、経営という言葉が明治維新以前までは、人間形成という仏教語であったと思うと、私たちは人間とは何か、日本民族とは何かの原点に立ち返ることができ、世界に誇れる長寿企業(リビングカンパニー)もまた生まれ得ると思うのである。もって21世紀の三条地場産業論の要諦としていただければ幸いである。

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